都内のプールに行くと、よく怒られる。あまりにもよく怒られるので、本が一冊書けるのではないかと思うくらいである。以下に今まで怒られた内容をまとめてみよう。
プールサイドからのエントリー
プールを、長方形に見立てたとき、通常は長いほうの辺が25mにあてられ、それに沿ってレーンが設定される。日本に帰国後、初めて都内のプールに入ろうと、真ん中のレーンからエントリーしようとしたら、監視員に怒られた。両端のレーンからしか入水できないのだそうだ。よく見ると、各レーンの飛び込み台の下に高さ20cmくらいの金属性の板が設置してあり、いかにもここから入るなという感じである。だが、簡単にまたげるので、ここから容易に入水できそうだし、むしろこの板が足をつっかえさせて、怪我をさせそうである。そうしたら、長方形の短辺からは入水できないと全面的に否定されるのだから、ぶったまげてしまった。
古い水着の着用禁止
もう一年以上使っている水着を相変わらず使い続けて泳いでいた。だいぶ生地が薄くなっているのは気になっていたが、まだまだいけるだろうと思って使い続けていたら、「これでは透けて見えてしまうので、やめてください」と監視員に怒られた。サポーターをしているので、大丈夫だろうと思っていたのだが、それでもだめなようで、ちゃんと擦り切れかかったら新しいものを買わないといけないのだそうだ。
帰り際にチケットを出さないと怒られる
プールに入る際に、チケットを渡される。これに時間が書いてあって、どのくらいプールに滞在しているのかを監視しているらしく、チケットを帰り際に出し忘れると、怒られてしまう。1時間の利用と2時間の利用で料金が異なるから、チケットに打刻された時間でその人がどのくらい使用したかを計っているのだろうが、そういうことを監視する手間が面倒とか、コストがかかるとか言う発想はないのだろうか。そもそも出入り口のところに自動販売機でチケットを売っていて、その上でさらに監視員が一人時間をチェックするだけのために雇われているわけで、無駄が多い気がする。このチェックする人を雇わないで、使用した時間を気にしないというようにできないものだろうか。そうすれば紙を回収する手間も省けるはずだ。
休憩後の入水、1秒早かっただけで怒られる
日本のプールでは、なぜか強制的に1時間ごとに10分間の休憩を強制的に取らされ、この間全員が水に入っていてはいけない。(10年ほど前、相模原に住んでいたころ、何でこんな慣習があるのかとある監視員と責任者に聞いてみたが、帰ってきた答えは解せなかった) 監視員が笛を吹くまではプールサイドの水辺から十分離れたところにとどまっていなければならない。
あるとき、監視員が口に笛を加えたのを見て、足を水につけた。多分その1秒後くらいに笛が鳴った。まあこのくらいのタイミングなら、どうってことなかろうと思っていたら、監視員の一人がすぐさまやってきて、怒られた。必ず笛が鳴ってから出ないと入水してはいけないと、言われた。たかだか1秒だけでもこっぴどく注意されてしまう。
プールへの飲み物持ち込み禁止
昨日、代々木のプールに行って、泳ぎ終わった後プールサイドでペットボトルの水を飲んだら怒られた。プールへ水を持ち込んだらいけないのだそうだ。水を飲むなら、出入り口付近にある備え付けの給水機から飲みなさいということだった。ついでに、ここでも帰り際にチケットを出し忘れて怒られた。
というわけで、運動してストレスを発散しようとしていくプールなのだが、上記のようにいろいろと細かいことで怒られると帰ってストレスがたまってしまう気がする。過去5年以上、住んでいたアメリカや、出張先のドイツでよくプールを利用していて、上記のようなことで怒られたことは一度もなかった。それが、日本に帰ってきて、4ヶ月の間に、こんなにも怒られてしまうと、なんだか自分がプールに行ってはいけない悪者になったような気さえする。しかも、ある一箇所ではなく、複数箇所でこのようなことが起きると、自分がブラックリストに乗っていて、あちこちのプールでの監視員が自分の行動を見張っているかのような気さえする。
まあこうした監視が厳しいからか、日本のプールはアメリカに比べて塩素の臭いが少ない割には透明度がよく、きれいである。そのことは大変高く評価できるのだが、一方でこのようにさまざまなことで注意を受けると、プールの水がきれいなことに対する快適さ以上に、ストレスを作る原因のほうが目に付いてしまう。
ここで突然だが、日本のサービスやソフトウェアがなぜ世界で通用しないかを考えてみた。ゲームやアニメは世界を席巻しているが、ビジネスソフトやサービスで世界に広がっているものはほとんど思いつかない。こじ付けみたいに思われるかもしれないが、これは上記のようなサービス提供側の「ユーザーの行動を提供側の想定範囲内に押さえ込む」という社会習慣に根ざしているのではという気がする。すなわち、ある施設やサービスや装置や器具を使うとき、ユーザー側は提供側の考えたシナリオでしか使ってはいけないのであり、そのシナリオから外れたことをしようとすると、エラーとなったり、怒られたり、特別扱いになったりするという習慣である。よくあることだが、「これはおまじいだと思ってやってね」という言い方があるが、これは日本でなら通じるやり方だが、日本国外では通じない考え方である。歴史や背景や思想や言語が異なる人々が集まったら、その場その場で提供者側の定めたルールを伝えなければならないし、場合によっては「おまじない」という考えをつたえるだけで、かなりの労力を要求されるだろう。
こうした「おまじない」敵考え方に慣れてしまうと、ユーザー側や実行者側いろいろな場面で何も考えずに決められたことをやりさえすればいいという態度ができてしまうし、サービス提供側や管理側は、ユーザーや実行者が自分たちの想定したシナリオ内でしか行動できないようにするというマニュアルを考えてしまう。日本のサービスやソフトウェアが弱いのは、使う上での前提となる条件やシナリオに多様性がなく、限定的なためにちょっとでも外れたことをしようとすると破綻をきたすという仕組みがあるからではないかという気がする。
コンビニなどの店員の対応を見て、マニュアル人間が多くなったと嘆く大人がけっこういるが、実はその原因を作ったのはほかならぬ自分たちではないだろうか。ひとつの目的を達成するのに、さまざまなやり方があっていいはずなのだが、いつの間にかそのやり方の幅が狭まってきているようで、それがために窮屈な社会ができつつあるのかもしれない。