二酸化炭素排出量削減のために、シャンペンのボトルが更新されるそうです。
French Champagne Makers Try for a Greener Bottle – NYTimes.com
http://www.nytimes.com/2010/09/01/business/energy-environment/01champagne.html?_r=1&scp=2&sq=Champagne&st=cse
瓶の底の部分と肩の部分をちょっと変えることで、750mlの容量を変えることなく、瓶を65グラム軽くすることができるということです。これが年間に出荷される3億本のシャンペンに適用されれば、効果は絶大になるということで、なかなか興味深いものがあります。
Life is beautiful でおなじみの中島聡さんのブログで紹介されている ビデオです。
これを見たあと、自分がありがたい環境にいるのだなと、感謝の念を抱かずにはおられなくなり、かつ、皆さんと共有させていただきたいと思い、自分のブログにも乗せることにしました。
紙飛行機を宇宙から飛ばすとどうなるかという実験が行われるようです。
紙飛行機を宇宙から飛ばしても燃えないのはなぜ?
http://techon.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20100727/184557/
高度約400kmの軌道に位置する宇宙ステーションから紙飛行機を飛ばしたら、ちゃんと地上に届くかという実験です。
こういう話題、好きです。一見すると、何の特にもならなそうに見える実験ですが、実はこれって、重要な科学的要素を含んでいます。記事にもあるように、どのような材質で飛行機をつくったらよいか、どのような形状がよいか、どのような質量にすべきかという考察が必要ですし、記事には触れられていませんが宇宙ステーションからどのような角度で紙飛行機を放てばよいかの検討も必要でしょう。これらの要素を検討するために、風洞実験をしたり、シミュレーションが行われたりしているわけですが、こうした活動で得られた解析結果は、オープンにいつでも誰でもアクセス可能にしておけば、将来その資産を受け継いでくれる科学者や技術者が現れるでしょう。
そうした間接的な効果の他にも、直接的に期待できることとして、宇宙に関心を持つ人々が増え、理科系に進もうとする子供たちが増えることや、関連する素材技術の宣伝にもつながることが考えられます。特にこのご時世、人々の夢をかき立てられるような話題が少なくなっていく中、このような実験はなんだかわくわくさせてくれる気がします。
そのような関心の高まりこそが、宇宙へ進出していくモチベーションの高まりへとつながっていくのではと思います。
ニューヨーク・タイムズに、話す言語に酔って人々の思考が変わるかという興味深い記事が出ています。
Does Your Language Shape How You Think?
http://www.nytimes.com/2010/08/29/magazine/29language-t.html?_r=1
古くは20世紀の初めに MIT の構内誌に記載されて一時期話題になったトピックですが、その後そんなことはないと、話題にも上がらなくなっていたようです。ところが最近の調査の進展により、意外にそうかもしれないということが言われ始めているようです。
村上春樹氏による、1Q84 を3冊読み終えました。読んでいる間にいろいろと思うところがあったので、つらつらと書いてみたいと思います。
物語の所々に、1984年に起きた出来事が紹介されていますが、一方でこの本ならではの事象も出てきます。村上春樹氏は実際の出来事も架空の出来事もどちらも詳細な描写で、巧みに記述しているので、読んでいるうちに現実とフィクションとの境界がいつのまにかおぼろげになっていきます。そうしていつの間にか、主人公と読者が、この小説で特徴的な、月が二つ出ている世界に入り込んでいきますが、他の全ての記述はあたかも事実を語るかのごとく、きわめて精巧な描写がなされているので、現実と架空の差がわずかしか感じられない、少し不思議な感覚にみまわれます。そういう意味では、藤子F先生の SF (少し不思議) の世界に通じるところがあります。すなわち、日常生活からちょっと変わった、少し不思議な世界が、マンガと小説という違いはあるにせよ、どちらも共通した世界感を描いていると感じられます。
と思っていたら、著者が実際にそのことを語っておられます。
米同時テロ動機に「1Q84」執筆…村上春樹氏
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20100824-OYT1T00135.htm
特に、氏が述べられている
平凡な主人公が非日常的な出来事に巻き込まれる物語が多い
という部分は、まさに藤子F先生の描く世界と共通するところで、平凡な主人公の日常に、ネコ型ロボットが突然やってきたり、オバケが現れたり、エスパーを駆使する人が現れたりしています。そんなことからか、今回始めて村上春樹氏の作品を読んだのですが、違和感なくすんなりと読めました。
また、この作品の中で、自分にとってなじみの深い地名が出てきたことで、ますます親近感が沸いてきました。世田谷で生まれ、市川市の公立小学校に4年生まで通っていて、祖母が一時期高円寺に住んでいて、よく訪れたこともあり、描かれる世界に親しみがわきました。
さて、自分自身の過ごした1984年と言えば、ちょうど洋楽を聴き始めたころであり またロサンゼルスオリンピックが行われた年ということもあり、アメリカを強烈に意識した年でした。強いアメリカの復活を訴えたレーガン大統領が再選したのもこの年ですし、スペースシャトルの打ち上げが順調に行われていたのもこのころでした。小学生から中学生に上がり、英語が授業で行われるようになったこともあり、FEN を聞き始めたのもこの頃からでした。
1984年当時よく聞いた曲がなつかしくなり、この本を読んでいる間によく BGM として聞きました。以下アルバムを並べておきます。
1984 – Van Halen
Overnight Success – Teri DeSario with Joey Carbone & Richie Zito
Chicago 17 – Chicago
Colour By Numbers – Culture Club
Caught in the Act (Live) – Styx
99 Luftballons – Nena
「休日ドライバー」をウェブで検索してみると、どうも非難めいたものが多く見られます。一言でまとめるなら、休日ドライバーで運転がへたくそな奴らは迷惑だから運転するなということでしょうか。
こういう非難を見ていると、多様性を認められない人々の本音を垣間みるような気がします。すなわち、世の中には本当に多種多様な人々がいるわけですが、そうした人たちのここの事情を顧みることなく、自分たちの仲間として同一グループとみなせる人々を「ウチ」と称し、それ以外の人々を「ヨソ」として扱い、ヨソ者を排除する思考です。
こうした休日ドライバーを非難する人も、車を運転したての頃は初心者マークをつけて、おっかなびっくりにアクセルを踏んでいたかもしれません。そうした経験も忘れて、「自分たちこそ、道路を運転する資格がある」と言わんばかりに、運転技術の未熟な人々は運転するなというのは、こうした人々の技術の向上を阻止する思いやりのなさと、自分たちこそが認められているのだという傲慢さがにじみ出ています。ウェブで初心者や休日ドライバーを非難している人々は、いざ車を降りたら歩道いっぱいに広がって歩いて、他の人が通りづらくしているかもしれません。歩きタバコをして、周囲の人に煙たい思いをさせているかもしれません。そのような自分たちの行動を省みることなく、偉そうに非難するというのはなんだか残念な気持ちになります。
その町の運転に慣れていないドライバーが、曲がり角がわからず、ふらふらしてしまうのは、それだけ道路事情が悪いということです。町づくりからきちんと始めて、もっとわかりやすい区画整理と看板表示にすることが可能なはずです。また、運転手が危険な車線変更をしてしまうのは、死界があるからで、車側で死界を補うような工夫がなされるべきでしょう。そういう意味では、バックミラーがほとんどドアミラーになってしまい、フェンダーミラーがタクシーだけになってしまったのは本当に残念です。
全てそもそも、路上に出ているドライバーは、公の機関が課す適性試験を合格しているから運転できるわけです。もし、ドライバーの運転技術が未熟であり、道路を運転するのにふさわしくないということであれば、適性試験をもっと厳しくして、迷惑をかけないような人々のみが運転できるようにして、「ウチ」なる人々にとってのよそ者である、へたくそなドライバーを排除できるような仕組みにすべきです。
ここでも、既得権益を享受できる人と、そうでない人々の間の断絶が見いだせるような気がします。すなわち、持てるものは自分たちの利益と縄張りの確保に努め、新参者や想定外が起きるのをできるだけ排除したいという構図です。結局出る杭は打たれるのが日本社会なんですね。
ニューヨーク・タイムズに、アメリカに移民する人たちが名前を変える必要性がなくなったという記事が出ています。
New Life in U.S. No Longer Means New Name
http://www.nytimes.com/2010/08/26/nyregion/26names.html?_r=1
100年くらい前、ヨーロッパからの移民が多かった頃は、入国の際にイギリス系の名前に変える人々が多く、例えば Steinweg というドイツからの移民は Steinway と、イギリス式に変えたり、Tom Lee という人はもともとは Wong Ah Ling だったということです。
移民の多くがヨーロッパからの人だったころは、人々を区別するのに有効な手段は名前しかなく、かつその名前が覚えづらかったり発音しづらかったりすると混乱を招くということで、積極的に名前を変える人が多かったのですが、最近の移民はアジアや南アメリカからの人々も増え、彼らは外見上簡単にわかるので、名前を変える必要性もないという指摘もあります。
また、Affirmative Action という、マイノリティーに属する人々の入学や雇用を積極的に促す法律があるために、イギリス系の姓以外を持っていると実はかえって有利になるということも考えられます。
要するに社会的なプレッシャーが、もはや100年前ほど強くなく、積極的に姓を変える必要性が薄れてきたということです。また、現在では免許証や社会保障番号やパスポートなど、多数の法的・公的な書類に氏名を書かなくてはならず、それらを変える手間を考えると、わざわざ名前を変えたくもないということもあります。
いずれにせよ、アメリカに入国する際は、昔ほど自分の名前を変える必要性はなくなっているというのがここでの指摘です。
ただ、そうはいっても発音しづらい人はもっと発音しやすいものに名前を変えるケースもあります。この記事の一番最後の部分で、Glauberman という人がこの名前だとややこしいので、Grant と言う名前にしたところ、電話を取り次いだ秘書の人が、最後のスペルは d ですか、それとも t ですか、と聞いてきたというエピソードが紹介されていますが、これも皮肉です。
日本企業の人事制度が、日本の大学卒業者に有利な採用を行っているため、国際的に有名で権威のある大学に行く人の数が減っているという指摘です。
ガラパゴス化している日本企業の人事制度
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/4275
実は「ガラパゴス化」という現象は、日本という国そのものの姿なのかもしれないと最近思うようになりました。日本だけが、独自の道を進んでいるという点においては、鎖国といってもいいのかもしれません。
デジタル化が進む中で、脳がリラックスして休む時間が減って来てしまっているという指摘があります。
Digital Devices Deprive Brain of Needed Downtime
http://www.nytimes.com/2010/08/25/technology/25brain.html
記事の中ではジムに通う女性が、トレッドミルと呼ばれるトレーニングマシンの画面を見ながら運動し、耳の中では iPod の音楽を聴き、通常は目線は目の前の大画面テレビにあるというような例を取りあげていますが、これってアメリカにいる頃に妻がやっていたことそのままです。
現在では、iPhone や iPad や、スマートフォンや、ケータイなどがあるおかげで、ちょっとした空き時間を利用してメールのチェックやゲームや読書ができてしまうわけですが、これは脳を常に働き続けさせ、本来必要な休息時間が取れないために、記憶の定着化の低下すなわち記憶力の低下に結びついているということです。
電車に乗っていると、ふと集中力が切れたときに窓の外の景色が移り変わるのをぼーっと見て過ごすときがありますが、あれはあれで、実は必要な時間だということを自覚しました。